turedure-note

どんな世界を奏でようか。わたしの目に耳に心に映る事々。

闇だっていいじゃん。

振り返ってみるとはてなブログを始めたのがちょうど一年前の今頃。

それから何度も投稿してみるも気に入らなくて、下書きのままの投稿がストックされていた(そんなことも忘れていた)。

そもそも何でこのはてなブログを始めたんだっけ。

敬愛する坂爪さんがはてなブログを採用していたからだったような…。

どちらにしても、はてなブログに投稿していたものは私の中の光の部分ばかり。

あれは私の中の真から出た言葉に間違いはないけれど、光だけにフォーカスしたこのブログにダークサイドの言葉をちょこっとでも綴ることが作品を穢してしまうようで心地悪かった私は、新たにダークサイド投稿用として、「note」の方に日ごろの鬱憤を吐き出していた。

光の世界は誰にとっても分かりやすく、受け入れやすいもの。

 

言葉を紡ぐ世界に日常的に身を置けなかったのは、「残す」ことを怖がっていたからなのかもしれない。

永遠に残り続ける文字に向き合う自信がなかったのだろう。

 

じゃあなぜ今また書き始めているのかと言うと、この一年の間に多少なりとも私自身の中で光と闇の置き所の整理が付き始めたからだ。

 

闇に向き合っても壊れないと信じられる心。

むしろ最近は自分の中の闇を見出してみたくなったのだ。

どれだけ眠っているのだろう。

たぶん、もっとたくさん出てくる。

分からないものを分かち合いたくなった。

 

ネガティブな要素を吐き出すという名目で実験的に集まったグループの存在を知った。

発起人はママたちの居場所をつくるために立ち上げたという。

自分がいかにどれだけ駄目なのかを自由に発言し合いまくるというもの。

 

何が起きたかといえば、自分の弱みをどこにも吐き出せず、なんとか(世の中の理想像や育ちの影響で作られた概念の呪縛)世の中に適応しおうと頑張りまくるママたちが本心を語り始めたのだ。こんなこと言っては母親失格だとか、こんなことを言われて悲しい、悔しい、とかを語り始めたのだった。

自分の本心さえも一過性の感情に振り回されるばかりで、自分から湧き上がる要求や時には揺らがない誇りのようなものさえも現実社会の中では埋もれていたのだった。

 

感情が解放されることで、弱いと思っていた自分を実は弱さでもなんでもなかったと知る。自分の感情や気持ちを吐き出していい場所があったことで、彼女たちは本当の自分の在りかに自分自身で気づいていくというプロセス。

 

そればかりじゃない。

ある人が家事が苦手、育児が苦手、など不出来な自分を晒せば、

「それは私得意だからやらせてほしい」

といった助けの手が挙がるという…

 

助ける方も、自分の得意なことで世の中のために自分を差し出せる機会を与えられ、絶対的な肯定感を感じるという仕組み。

 

これがもし、世の中の仕組み作りでこういった場所が各所に存在したら…。

場所じゃなくても、ネガティブを発言して誰もアドバイスしない関係値を誰かと築けたら…。

ネガティブを隠すなんて勿体ないことで、むしろ生きやすくなるための可能性しかないのかもしれない。

そもそもネガティブもポジティブも誰かの思考ジャッジが入っただけに過ぎず、生まれてくるなり突如その枠に当てはめられただけなのだから。地球人全員。

 

もっと自由でいいよなーーと思う。

周りの人を見ているとどれだけ世の中の縦割り常識に囚われ苦しみつづけて、持って生まれた才能を発揮できずにいるのだろう。自分も然り。

これが解放されていったらその先にどんな世界が待っているのだろう。

 

苦しいことがダメなのではなくて、遠回りすることもダメなのではないけれど、

どっちもあるよ、と選択する機会、知る機会さえ、与えられていないのかもしれず。

 

こんな道もあるよ、あんな道もあるよ、それであなたはどの道を選ぶ?

 って聞けたらいいのに。

 

私はいい加減そろそろ潮時な感じで、スマートコース一択ですね(笑)